伝える、ということ

伝えるのにはあらゆる手段がある。

 

話し、書き、打ち、歌い、描く。

 

伝えるのにはあらゆる手段何でも使える恵まれた環境にいるのに、それをしないなんて恵まれていることにさえ気づいていないのだ。

 

高校二年の時に初めて自分専用のタブレットを持って、大学に入学するときにスマホをゲットした。

触れる情報の量は格段に増えた。

例えるなら、滝行だ。

受け止めきれないほどの情報が絶え間なく降ってくるが、つかみ取れるのはほんのわずかなもの。そして情報の滝に考える力が削られてしまったようだ。

 

見ないといけない義務なんてないし、暇なわけでもない。

そんな時でもTwitterやインスタを開いてしまう。

SNSのおかげで役に立つ情報、世の中で凄いと思える人を発見できていることは間違いない。

 

大学生になった私は小中学生の頃よりも「伝えること」がへたくそになっている。

 

集中力の欠如で、脈略のない文章しか書けなくなってしまったのかもしれない。

 

ただひたすらタイムラインを追い、他人のツイートを読み漁るこの数年間で今何か失いかけている。集中力、文章能力、会話能力、、、

 

本が好きだけれども、以前のように数時間読み続けることができない。せいぜい15~30分程度しか集中が続かない。面白いのに、心のどこかでもう飽きている。だから何冊も同時に読むことになる。でも、結局読み終えることができない。

 

新聞もそう。関心がある内容でも読むことが面倒臭く思えてしまう。

140字に慣れすぎた結果か。

 

一日SNSを見ない日なんてこの3年間1日もなかった。

 

携帯の使用時間を押さえようと1日2時間という制限をかけたが、その制限を解除してまでも見てしまう。

ここまで「依存」するなんて思わなかった。

 

こんなブログを書いたんだから、明日こそは一日一回もインスタとTwitterを見ない。

 

そう宣言した今、もうすでにアプリを開いてしまいそうだ。

 

いや、明日はぐっとこらえて、SNSが無くても楽しい一日を過ごそう。

 

※インスタやTwitterの文句ではないです。自己管理できてない自分が悪いのです。SNSの存在が悪いなどと受け取られたら困るので一応補足しました。